この記事は2025年2月8日に開催されたタンチョウフォーラムで配布された資料を元に作成しております。
アイヌ語で湿原の神(サルルンカムイ)と畏敬をこめて呼ばれたタンチョウは、永く絶滅の危機にあったが、1924年 湿原の最奥地チルワツナイ川周辺で再発見された。大正・昭和・平成、そして令和の現在まで100年、鶴居村のタンチョウと村民との交流の歴史を振り返る。

I.タンチョウ再発見の物語

今から約100年前、関東大震災翌年の1924年、それは一人の道庁役人と鶴居の牧場主との出会いからすべてが始まる。乱獲などにより絶滅したと思われていたタンチョウだが、湿原付近での目撃証言もあり、猟政官として野生動物の調査に当たっていた斎藤春治氏は、かねてよりタンチョウ を10数羽目撃していた湿原最奥で牧場を営む宮嶋徳三郎・利雄親子を訪れ、泊りがけで調査を行なった。

宮嶋親子の協力のもと10月のある日、湿原内で手こぎ舟の上から5羽のタンチョウ の観察に成功。途中馬上で見た十羽と合わせて十数羽となる。これが我が国におけるタンチョウの再発見の瞬間である。この発見は国や自然愛好家の耳目を集め、斎藤氏のはたらきかけで翌年、チルワツナイ一帯が禁猟区に指定される。ここにタンチョウ保護の第一歩が動き出すことになる。

斎藤氏は双眼鏡を片手に、宮島氏の案内で馬に乗り山づたいに北に進むと、キラコタン崎と宮島崎の間でチルワツナイ川の近くに十羽近い鶴の姿を見つけた。しかし、湿原の中に入ると葦の草陰で鶴の姿が見えないので、利雄氏が高い処から双眼鏡で見ながら合図をすると、斎藤氏と宮島氏は鶴が飛び立たないように注意しながら徐々に近づいていった。斎藤氏は約十五米近くから双眼鏡で鶴を観察し、ここで始めて「タンチョウ」であることを確認した。 これが、釧路湿原における「タンチョウ」の最初の発見であった。(市民文芸誌『釧路春秋』曽根樫次「タンチョウと宮島岬」)

「ニオ」にトウモロコシのエサをつけに行く「ツル当番」の子供たち (昭和30年頃) 釧路叢書編さん事務局編『タンチョウの釧路』から引用
「ニオ」を作る子どもたち

II.保護の原点―瀕死のタンチョウ、子どもたちが救う

1935年には文部省により国の天然記念物に指定されたものの、タンチョウの個体数は思うように増えなかった。

1952年の冬は猛吹雪で餌が見つからないためか、3羽のタンチョウが人里に近い幌呂川沿いのデントコーン畑まで姿を現す。警戒心が強いタンチョウには珍しいことだ。畑でうずくまっているタンチョウがいることを子どもたちが幌呂小学校の校長に伝え、子どもたちが率先してデントコーン畑にニオ(刈り取ったトウモロコシなどを野外に円錐形に積み上げたもの)を作る。そして12月15日、タンチョウの給餌に初めて成功した(同じ頃、阿寒村で山崎定次郎氏も給餌に成功している)。ここから鶴居村幌呂の小学生を中心としたタンチョウ保護活動がはじまることになる。

1952年はタンチョウ保護にとって記念碑的な年で、「釧路の丹頂及び繁殖地」が国の特別天然記念物に指定されている。同年、道の第一回生態調査が行われたが、わずか33羽のタンチョウが確認され、つまり子どもたちによる給餌成功は、絶滅か生存かの綱渡りの時期の出来事だったのだ。

10年後の1962年には、下雪裡小学校でも子どもたちによる給餌活動がはじまる。再発見から30年ほど経ち、こうした子どもたちをはじめとする地域住民の保護活動により、絶滅の危機からようやく脱することとなった。

十二月十三日、寒暖計は零下三十度をしめしていた。登校する子供たちのエリ巻きも帽子も、はく息で真白になっている。息を吸うと鼻毛がピリピリと凍る朝だった。朝礼に整列した子供たちが、松井岩市さんの沢のデントコーン畑に、三羽のタンチョウが昨日も今日もうずくまっていると報告された。新井田校長を先頭に松井さんの畑へ直行した。タンチョウは親子づれの三羽だった。「鶴居村の村名にかけても鶴を救おう」と新井田校長の声で、近くの農家を子供たちも手わけしてデントコーンを集めた。簡単なデントコーンの”ニオ”を作り、ばらのデントコーンを箱に入れて置いた。 (釧路叢書編さん事務局編『タンチョウの釧路』中港嗣哉 「第二編タンチョウ のすむ風土」)

Ⅲ.タンチョウ保護に尽くした人々-その思い

鶴居の子どもたちによるタンチョウ保護活動は、先生たちの指導や農家からの穀物の支給という愛護の心に溢れる大人たちに支えられていた。1952年、初の給餌成功に導いた幌呂小学校の初代校長 新井田準次郎氏や下雪裡小学校校長 武藤良治氏は、タンチョウ保護活動初期の功労者と言える。

以降、村ではタンチョウの給餌人や保護監視人が任命され保護活動に当たることになるが、彼ら保護に尽くした方々は、いずれもみなタンチョウに魅せられ無償の愛情から自発的に保護活動にたずさわっていた人たちだ。なかでも鶴居村の二大給餌場の礎となった功労者に触れないわけにはいかない。

1962年に給餌をはじめた下雪裡小学校の隣にある牧草地を提供し、児童数が減少すると児童が行っていた給餌を65年頃から引き継いだ渡部義明さん、トメさんご夫妻。トメさんは生前「鶴のおばあちゃん」と親しまれた。67年には道から給餌人の委嘱を受け、以降2015年頃まで半世紀、二人三脚で冬の間1日も欠かさず給餌を続ける。一帯は給餌場「鶴見台」として整備されたが、一輪車で給餌する姿は変わらなかった。観光客と気さくに話すトメさんと、その傍らで静かに見守る義明さんは、いつしかタンチョウ保護のシンボルとなっていた。義明さん90歳、トメさん99歳という長寿で亡くなった時、全国のタンチョウ愛好家から弔電が寄せられたという。

伊藤良孝さんは今も「鶴居・伊藤タンチョウサンクチュアリ」に名前を留めている。1966年から農作業の傍ら、自宅横の牧草地に飛来し餌を探すタンチョウに給餌をはじめ、道委嘱の給餌人・監視人も務め保護に尽力した功労者の一人だ。後年伊藤さんは財団法人日本野鳥の会(現公益財団法人)から打診を受け、協定により約13haもの土地を開放する。1987年に同会のタンチョウ保護活動の拠点となる「タンチョウの聖域」を意味するサンクチュアリが開設した。

両給餌場には国内はもちろん世界中から観光客が訪れている。冬場の餌不足が解消され生息数は回復したが、その成果の裏にはタンチョウ保護に尽くした先人の雪も溶かす熱い思いがあった。

昭和の年号になり、二年の一月、晴天の午前十時頃、雪は地面が白い程度の少ない雪でした。私は何げなく家の前に出て居ると、クウークウーと、け高い声と羽ばたく音がして、屋根の上、大きな白いツルが飛んで来た。絵本や本でツルを知って居たが、実物を見たのは初めて。そのしゅんかん私は、ツルが来た、ツルが来た、と思わず叫んだ。家中の者が、何が来たのーと外の庭に飛び出て、あれは何んだらうと、ツルだろうか、やあきれいだなあと一同おどろいた。 五十年後の今日も、この一瞬を忘れることがない。

「ほっかぶりしたかっこうとそうでない時では、ツルの態度が違うね。(中略)昔はただ寒いからほっかぶりしてたけど、ユニフォームになっちゃっただけさ」 「ずいぶん前だったが、イギリスのエジンバラ公爵が来たんだ。その時ほっかぶりをやめておしゃれしようと思ったら、いつもの格好でいいと言うんだ。あの人は偉い人だと思ったよ」  *昭和57年、英国エジンバラ公フィリップ殿下来村時のエピソード。

給餌するほっかぶり姿の渡部トメさん
伊藤良孝さんによる最後の給餌(1996年3月31日)
タンチョウによる食害の様子

Ⅳ.さまざまな課題に直面。 共生への模索はつづく

2006年の道の一斉調査で初めてタンチョウの確認数は1000羽を超えた。多くの人々や保護団体のたゆまぬ尽力で個体数は回復したが、一方で新たな課題にも直面している。

野生動物が密集し群れることで懸念される感染症の集団罹患。2022年、国内で初めて高病原性鳥インフルエンザウイルスに感染したタンチョウが釧路市内で確認され激震が走ることとなる。タンチョウの生息域の分散化は今後の大きなテーマと言える。村では二大給餌場での給餌量を削減し、タンチョウが過度に給餌に頼らないようさまざまな施策を検討し、試行している。

また、地域住民との摩擦も生じている。畑を荒らす被害は以前からだが、生息数が増えたことで頻度も規模も変わる。蒔いたばかりのデントコーンの種や配合飼料に含まれるコーンなどの食害は酪農経営に打撃を与えている。根本的な解決は難しい状況にあるが、住民有志による畑からの追い払いや、防鳥器具の設置等により食害軽減に努めている。

観光客へのマナー啓発も課題のひとつ。タンチョウへの過度の接近や私有地ヘの無断侵入、ドローンによる生息地のかく乱等の問題が発生している。また、近年では幹線道路での交通事故も増加している。鶴居村では多言語による「鶴居村タンチョウ観察ルール」を策定し、注意を呼び掛けている。